夏のある日の出来事

272 :N.W :2005/08/01(月) 07:00:08 (p)ID:mArbbp2u0(6)
あと1週間程で、高校生最後の夏休みも終わろうと言う頃。朝っぱらから、ご機嫌な 梶がやって来た。
そりゃそうだろう、自分の車を手に入れたのだから。 
こんな時はやっぱり、ちょっとうらやましいなと思う。
同じ高3でも、7月生まれの 梶は免許が取れるが、2月生まれの俺は、半年先にならないと試験さえ受けられない。
 
ドライブに行こうと言うから、この季節の事、てっきり海だと思っていたら大台ヶ原へ行こうと言う。
海へ行こうと言ってみたが、あっさり却下。 
「海へ行くくらいなら、最初から貴美も積んでくる」貴美と言うのは梶の今の彼女。 
「峠攻めしたいから、おまえを誘いに来たんじゃないか」まあ、それはわかるが… 
道路に停めてあったのはメタリック・インディゴブルーのギャラン。

運転席側のドアと、 反対の後部座席側のドアに、金銀で、斜め後方へ流れる狐火がさりげなくペイントされている。
なんだか走り屋にマークされそうな車だ。梶にそう言うと、さりげなく笑われた。 
さては、もう何かやったな。 
国道24号線を紀ノ川に沿って、橋本・五条方面へ遡って行く。 
吉野とうまく行ってるのか、と梶が聞いて来る。
あー、もうじき消滅だろうなと答えたら、なんで?と聞き返された。
伊吹山でのD・キス中断事件を話すと、爆笑された。
 
「伊吹童子にヤられたか。は、おまえらしいわ」放っとけ! 
国道370号線を下市・大淀と辿り、宮滝で国道169号線へ取って南下する。 
この辺から景色は、のどかな田舎町から本格的な山の中へと変わり始め、道路も直線が 減り、カーブが連続するようになって来る。
梶はタイヤを泣かさず、きっちりラインを 取って、きれいに走る。
普通の車だと、きっとリヤタイヤが流れてしまうような所でも、 フロントがぐっと沈み、四輪がちゃんと路面をホールドしているのがわかる。
ナビ席が 女の子でも、楽しくて声を上げる事があっても、恐怖で悲鳴を上げる事はないだろう。 
車もいいが、梶の腕もいい。 

「さすが梶クン、キャリアが違いますな」 
「うん?それはどう言う意味かな?ボクは先月、免許を手にしたばかりなんだが…」 
よく言うぜ。梶いわく、若人は過ぎた日の事は忘れるんだそうだが。 

あっという間に伯母谷トンネルを過ぎ、大台ヶ原ドライブウェイへ入った。
3桁国道 より整備されているから、余計に走りやすい。
バイクで走っても面白い路だが、こう いう車で攻めるのもなかなか楽しいもんだ。 

休憩も忘れて走ったお陰で、車を降りると少々腰が痛い。しばらく休んで、また走るの かと思っていたら、大台ヶ原を歩こうと梶が言いだした。 
「西コースなら初心者向きだから、行けるべさ」 
昔は登山靴でないと無理な所もあったようだが、今は西コースだけならそれなりの靴で 十分だ。
俺たちはどっちも、流行だったコンバースのセミバッシュを履いていた。 
「おまえと歩くとなぁ、変な目に遭うからなぁ」 
「あ、そりゃ俺のせりふだ」 
大台ヶ原は、昔の台風のせいで出来たトウヒの白骨樹林が良く知られているが、本来は湿潤な気候による豊かな原生林を保っている山地で、
野生鹿や珍しい四季の植物を観察する事が出来る場所である。

シャクナゲ、ツツジ、シロヤシオなどが咲き誇る5月頃や、 秋の紅葉がたいへん見事なシーズンには、
観光バスもガンガン入り、歩きづらい時が あるが、夏の終わりの今頃はそんなこともない。 

駐車場から左手の道を、日出ヶ岳へ向かって歩いた。荷物は、お互いウエストポーチ1個だけ。
山頂からは大峰・台高山脈が一望出来る。めったにないが、日の出を背にした富士山のシルエットを見られる事もあるらしい。

正木ヶ原ではおなじみの白骨樹林を見る事が出来る。鹿はこの辺で多く見られると言うが、こんな時間では無理。 
尾鷲の辻で、駐車場へ戻るショートカットコースがあるがパス。梶はこの先の、牛石ヶ原から大蛇嵓がいいと言う。 

笹に蔽われた牛石ヶ原には、昔、高僧の法力で牛妖が封じ込められたと言う石がある。 
ただの石じゃないかと思ったが、そう言う事は言わずに通過。いよいよ、大蛇嵓へ。 
一目見て嬉しくなった。いい具合に、まるでロウソクのように、尖がっている。 
足場は悪くないが、岩稜歩きは慎重にやらないと危ない。でも、それをクリアして、辿り着いた先の絶景は見事。
この岩場の先端は鎖が張られているだけで、一足向こうは高低差800メートル下の東ノ川渓谷。
西には大峰の山々が、北には名瀑100選に選ばれた中の滝が良く見える。 

誰も来ないのをいい事に、しばらく景色に見惚れる。峰々を吹き渡る風が届ける木々のざわめきと、
滝川の音、街中とは全然違ったセミたちの遠い声。五感が楽しむ時。 

夕暮れになれば、ここは金色の光で満たされ、ヒグラシの声が届けられるのだろうか。 
そんな事を思っていると、不意にセミの声がぱたりとやんだ。心なしか、流れる水音も、 
数段弱まった気がする。夏の日差しだけが、相変わらず燦燦と降り注ぐ。 
ざわり…と枝葉の揺らぐ音がした。俺たちは周辺に目を走らせた。 
ざわり…ざわり…ざわり… 
登って来た道の方から、左回りに大きく、周囲の枝葉が揺れている。鹿や熊ではない。 
俺たちはほぼ同時にポーチに手を突っ込み、サバイバルナイフを抜いていた。 
ざわり…ざわり…ざわり…ざわり…ざわり… 
何かがゆっくり、確かに俺たちの周囲を、左から右へ取り巻いていた。 
俺はそのまま登山道に目を据え、梶が俺の背中合わせに断崖の方を確かめる。 
ざわ…ざわ…ざわ…ざわ…ざわ…ざわ…ざわ… 
速度を上げながら、包囲網が狭まった。腰を落とし、ナイフを両手で持って腹に構える。 
……………… 
耳が痛いような静寂。心臓が脳に来ている。 
足元に影が走り、梶が低く呻いた。 

振り向きざま、どうした、と言いかけた俺の言葉は途中で凍りついた。 
梶の正面、断崖側から、女の顔を持った大蛇が鎌首をもたげた形で、俺たちを見下ろしていた。
顔の大きさはたぶん、通常の人の2倍近くあるだろう。ヒグマ色の赤い髪が左右に広がり、
眉はなく、黒目が小さくて、青紫色の唇は大きくて薄い。鱗に蔽われた 
腹側は色白の赤ん坊のような肌色、背側はアオダイショウのような鈍色に光る。 
胴の太さは、直径25センチはありそうだ。 
それが、俺たちの事を探るような冷たい眼で、じぃっと見つめている。
 
もしも、俺一人だったら、情けないがきっと腰を抜かしていただろう。冷静な友がいてくれる事を感謝しつつ、
この状況からの脱出を考える。こんな足場の悪い所で、通常のような立ち回りは無理。
梶と二人、同時に突っ込んだとして、大蛇に与えるダメージは、おそらくミツバチが刺した程も与えられないだろう。

まして、俺たちの周りをこいつが 何巻きしているか、それさえ分からない。どうする? 
隣で梶は、静かに息を整えていた。勝負に出るタイミングを計っている。 
そうして、しばらく黙ったままの睨み合いが続く。 
風が俺たちの髪をなぶる。 
不意に大蛇の目がすっと細められ、唇がきゅっとV字になったかと思うと、不思議な嗄れ声で笑い出した。 
…くっくっくっくっくっ 
可笑しくてたまらないと言うより、何か気抜けしたような響きが、その声音の中にある。 
なんだ?戸惑う俺たち。 

大蛇は、先程までの冷たい眼ではなく、むしろ興味深げにこちらを見、二言三言何か言うと、
断崖から東ノ川渓谷の方へ、笑いながらそのまま身を翻して降りて行った。 
ざわざわざわざわざわ… 
枝葉の揺らぐ音が消え、再びセミの声と滝川の音が戻って来るまで、俺たちはナイフを握り締めたまま、そこに立ち尽くしていた。 

俺たちがようやくまともに言葉を交わしたのは、関西空港の良く見える海辺の喫茶店に落ち着いてからだった。 
そこで話をするうちに、俺たちは意外な事に気が付いた。 
大蛇の声については、某女性歌手の声を思いっきり潰したような声、と言う事で二人の意見は一致している。
問題はヤツが姿を消す前に言った言葉だ。 
梶は、大蛇が自分の方を見ながら「なんと、おまえらだったとは…また懐かしい顔ぶれを見るものよ」と言ったように聞こえた、と言う。 
俺には、大蛇が俺の方を見、大部分は梶と同じだが、懐かしい顔ぶれではなく「珍しい取り合わせ」と言ったように聞こえた。 
懐かしい顔ぶれと、珍しい取り合わせ。何とも意味深な言葉だが、同時に聞いたはずの言葉がこうまで違うものか? 
俺に言われた“珍しい取り合わせ”はまだわかる。俺自身、妙なものからなんとなく 
懐かしげにされたり、霊感の強い人たちから“気配が妙だ”と言われてきたから、そう言うのと普通の人間の組み合わせ、と言う意味だと思う。 
だが、梶に言われた“懐かしい顔ぶれ”と言うのは、全く持って見当が付かない。 
俺たちはあんなヤツとは初対面だ。 
もし、あの場にもう一人いたなら、そいつはどんな言葉を聞いただろう。 

17歳と18歳。アイスコーヒーを前に悩んでいた、夏のある日の出来事だ。 

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