夢の話

518 :N.W :sage :2005/08/11(木) 06:56:06 (p)ID:FAU7NCO80(4)
『夢の話 その1』 

ノックがあった。 
黒服の彼が手を触れないうちに、ドアは内側へ開かれた。 
そこには、銀灰色の和服に濃紺の帯を締めた、上品な老女が立っており、 
「お邪魔致します」と、その姿にふさわしい挨拶があった。 
しかし、俺の正面に腰を下ろした老女には、俺の事が見えていないようだ。 
やがて、彼が彼女の前に和菓子と抹茶を運んで来た。「どうぞ」 
彼女は礼を言ってそれらを口にする。 
「ああ、おいしい」そう言って微笑む彼女は、本当に人が良さそうに見えた。 
彼は、彼女が茶菓を食べ終えるのを待って、言葉をかけた。 
「もう、ご自分でわかっておいででしょうが、貴女は既に死んでおられます」 
驚いた。(いきなりそんな事を) 
だが、老女は平静だった。 
「はい。ですから、わたくしは御山へ登らせて頂くつもりでおりました。 
それだのに、ずうっとこの森の廻りを巡るばっかりで、肝心の道がわからない 
のです。このおうちの前も、何度通った事か…」 
袂から取出した薄手のハンカチを、手の中でくちゃくちゃに押し揉みながら、 
彼女は悲しげな顔をする。 
「それは貴女が持っておいでの荷物のせいです」 
「荷物?わたくしが持っている?」 
老女は合点がいかない、と言う顔をしている。俺にも、彼女が身一つでやって 
来たように思えたのだが、表に何かおいているのだろうか? 
「はい」彼が頷いた。「それは貴女がご自分の心の中に持っておいでのもの。 
それを持ったまま、御山に登る事は叶いません。ここへ捨ててお行きなさい」 
「わたくしは何も…」はっとして、老女は明らかにうろたえていた。 
「いいえ」彼は黒曜石のような瞳を、じっと彼女の顔に据える。 
「お持ちです。それを捨て、楽になって御山へお行きなさい」 
静かだが、有無を言わさぬ声音だった。 

一瞬、老女の顔が髪と同じように、真っ白になった。 
ぎゅうっとハンカチが握りしめられ、それが緩められた時、彼女は少し震える 
声で話し始めた。 
「わたくしには、栄介さんと言う五つ年上の従兄がおりました。栄介さんは本当に 
男らしい人で、わたくしは幼い頃から、従兄のお嫁さんになるものと合点して、 
その日を楽しみに指折数えておりました。 
わたくしが15歳の時です。栄介さんが神妙な面もちで、父のところにやって 
参りました。あんな顔をして、何か相談事だろうか。そう考えておりましたら、 
途中で母も父に呼ばれ、そして母の『まあ、結婚…!』と言う声が聞えたのです。 
結婚!わたくしは有頂天になりました。てっきり、あの人がわたくしとの結婚を 
両親に申し込みに来てくれたのだと思ったのです。 
しかし、それは儚い夢でございました。栄介さんは知り合いの紹介で見合をし、 
その人とこの秋に結婚するのだと、母から聞かされました。 
お相手は、わたくしどもと同じ町内で、小町娘と評判の里子さんでした。 
『あの二人ならお似合いよねぇ』そんな事を言う母が憎らしゅうございました。 
いえ、何より悔しゅうございました。情け無うございました。従兄とは言え、 
栄介さんはわたくしの気持ちを十分に知っておりましたはずですのに、何と酷い 
仕打ちをするのだろう。わたくしの胸は張り裂けそうでございました」 
老女の目から一筋、涙がこぼれた。そのまま涙をぬぐいもせず、話し続ける。 
「その時でした。結婚を邪魔してやろう、そう思ったのでございます。 
何とかしてあの二人に恥をかかせ、結婚出来なくしてやる。そう考えました。 
恐ろしい事です。けれど、辱めを受けたと思い込み、怒りで一杯のわたくしには、 
恥を雪ぐ、その気持ちしかございませんでした」 

「幸いに、里子さんは同じ町内の人。その日から、わたくしは里子さんの後を付け、 
様子を窺いました。その為に、夜、家を抜け出す事もしばしばございました。 
機会は思いがけなくやってまいりました。 
盆踊りの日の事です。栄介さんもこちらへ来て、里子さんと盆踊りを楽しんで 
おりました。その二人の幸せそうな顔。もう、憎らしくてたまりませんでした。 
そう、一時間余りも踊っておりましたでしょうか、栄介さんは里子さんをお家へ 
送って行きました。里子さんのお家には灯りが点っておりましたが、その前で 
なんと二人は包容しあって… 
…殺してやりたいと思いました。 
笑顔で二人は別れ、里子さんはしばらくあの人を見送っておりましたが、やがて 
お家の方へくるりと振り返りました。 
今だ!わたくしは後ろから里子さんに飛びかかり、首を絞めました。 
死ね死ね死ね、死んでしまえ!力一杯絞めました… 
我に返ると、里子さんはぐったりしておりました。本当に殺してしまったかと思い、 
仰天致しましたが、幸いにもまだ息がありました。 
ほっとすると、また彼女が憎くなりました。 
おまえのような女、あの人のお嫁さんにならせるものか。 
…どうしてあんな事が出来たのか。 
わたくしは里子さんをすぐ側の路地へ引きずって行きました。 
浴衣の帯を緩め、浴衣をはだけ、手足を大の字に広げました。 
それから辺りの様子を窺って、誰もいない事を確かめると、わたくしはそこから 
走って家へ戻りました。 
そのうち、きっと盆踊りから帰って来た誰かが、あそこを通りかかるでしょう。 
そして、里子さんのあられもない姿が人目に晒されるでしょう。 
あちらがどう言訳しても、汚れた女だと誰もが思うでしょう。 
これで破談になる。いい気味だ。わたくしは久し振りにいい気分で、枕を高く 
して眠りに就きました。 
ですが、その二日後、里子さんは首を吊って亡くなられました。 
その翌日、栄介さんも同じように…」 

老女の涙は止まることなく流れ続け、ポタポタと膝を濡らしている。 
「わたくしは…わたくしが二人を殺してしまった。二人の気持ちを考えもせず、 
ただ自分勝手な思い込みだけで、わたくしが…」 
泣き崩れた老女に、黒服の彼が静かに問いかけた。 
「それが貴女の本心ですか?」 
がば、と彼女が顔を上げた。それは、黒髪のまだ若い娘の貌で、着物も一瞬の間に、 
藍次に朝顔を染め散らせた浴衣と真っ赤な帯に替っている。 
もちろん、涙など一滴も流れていない。 
「いいえ、後悔なんぞしていません。あんな女、死んで良かったのよ! 
栄介もバカよ、あんな女の為に後追いなんて…」 
目を金色に光らせ、真っ赤な唇をかっと開いて娘が叫ぶ。 
「ええ、憎かったわ、憎かったわ、憎かったわ、本当に殺してやりたかった。栄介 
まで道連れにするなんて、死んでも許せない。出来る事なら、今からでも、何度でも、 
あの女を殺してやりたい」 
キィッと軋んだ音を立て、開いたドアの向うに、白装束の若い女が薄ら笑いを 
浮かべながら立っていた。 
「里子!」そう叫んで立ちあがった彼女もまた、同じく白装束へと身を変えている。 
ドアの向うの女がにやりと笑い、こちらに背を向け、宙を滑るような動きで遠ざかる。 
「殺してやる」 
後を追う娘の動きも、もはや人のそれではなく、先の彼女と同じく宙を滑るように 
ドアを飛出して行く。 
…あははははははは 
…死ね死ね死ね死ね死ねッ 
一方の狂ったような高笑いと、それに纏い付くようなもう一方の叫び。 
あっという間に姿が見えなくなった彼女らの向こうに、薄ぼんやりと靄がかかった 
ような山の姿が一つ見えていた。 

音もなく、ドアが閉じた。 
黒服の彼が何か言おうとした時、俺の意識はそこで落ちた… 

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