居酒屋


私があと三日で会社を定年退職する時の事でした。

その日の帰り、同僚のSさんと一緒に飲もうという事になりました。
Sさんは私より2つ年下ですが、30年来の友人でもあります。
駅の近くの馴染みの店ではなく、駅から少し離れた場所で店を探していました。
私は会社をやめた後は息子夫婦と同居する事になっていたので、この日は孫へのプレゼントを買おうと思っていたのです。
Sさんが意外にも乗り気で助言してくれたりもしたので、玩具屋での買い物は満足のゆくものとなりました。
玩具屋から駅へ向かう道は、あえて普段通らないような道を選びました。
二人でキョロキョロと目を動かしながら、めぼしい店を探して歩きました。
Sさんと一緒に新しい店を探すのは、年甲斐もなく新鮮で妙に浮き足だっていた気がします。
そんな時、ビルの間にひっそりと建っていた、注意深く探さなければ見落としそうな、目立たない小さな店を見つけました。
そして迷うことなく入ろうという気になったのです。
なぜそんな気になったかは分かりませんが、何故かこの店が私を呼んでいる、と感じたのです。
Sさんも反対しなかったので、その店に入ろうという事になりました。

店に入った瞬間、中からスーッと冷たい風が吹いてきたような気がしました。
客は誰もいず、薄暗くて少し不気味な感じでした。
「なんか暗い感じだな・・ま、静かでいいわな」
とSさんと言い合い、いつものようにビールを注文して飲んでいました。
静かな店内での会話は何となく盛り上がらず、店の親父も生気が無いような顔つきで静かに佇んでいます。
私も何か言いようの無い感じ、誰かにジッと監視されているかのような気配を感じました。
気のせいだと無理やり自分を説得しつつも、一度頭に浮かんでしまうと益々視線を感じるようになりました。
(仮にSに言ったところで笑われるだけだろう)
私は平静を装いながらビールを飲みました。
まだビールを大瓶一本しか空けてないときのことです。
なぜか急激に気分がくなってきました。
考えるより先に思わずSさんに
「・・ちょっと早いけど、そろそろ出ようか?」
と言いました。
不思議なことにSさんも大賛成、という感じだったので会計して店を出ました。
嫌な感じは、店を出てからも私に付いて回りました。

もう飲む気分ではなかったので、近くの喫茶店で少し休むことにしました。
一息ついた後、Sさんに先ほどの店の話をすると、実はSさんも嫌な視線を感じていたというのです。
今までまったく霊体験のなかった私は益々気分が悪くなり、すぐに帰宅しようとSさんと別れました。

そのすぐ後のことでした。
ふと、子供の声が聞こえたような気がしました。
まだそんなに遅い時間ではないので、それ自体は不思議ではありません。
ですがなんと言うか、遠くから聞こえたような、すぐ近くからのような・・
いや、耳の奥から聞こえたような・・とにかくうまく言葉に出来ないような妙な感じで聞こえたのです。
(ん?何だこの声は・・?)
あちらこちら見回しましたが、子供の姿など全然見当たりません。
(いや、確かに子供の声が・・空耳・・か?)
それから数分後、駅の近くのガード下を歩いていたときでした。
また声が聞こえてきたのです。
まだ4.5才くらいの男の子の声が、一所懸命に話していました。
「おじい・・ちゃん・・ぼくに・・も・・ちょうだ・・い」
声の意味を考えていたさなか 突然気付きました。
(え!?なんだ?・・なんで聞こえるんだ?)
電車の騒音がひどいので、すぐ隣の人と話すにも一苦労なはずなのに聞こえるのです。
私は逃げるようにしてガード下から飛び出し、すぐに駅なのに慌ててタクシーを捕まえました。
自宅までの行き先を伝えると、しばらく固く目を閉じ、あの声を頭から追い払おうとしていました。

運転手はしばらくの間、少し怪訝そうに私をバックミラーで眺めているようでした。
そして私が少し落ち着いたと見るや
「どうかしたんですか?」
と聞いてきました。
誰かに話して少しでも楽になりたいと思い、先ほど起きた出来事を包み隠さず運転手に話しました。
話し終わった後もしばらく黙っていた運転手は、息を整えるように深呼吸をすると静かに話し始めました。
「ふー・・そうですか、お客さん・・あの店に行ったんですか・・
・・・あそこの店主にはお孫さんが一人いたんです。
その両親というのが酷い夫婦でね・・・店主の長男夫婦なんですがね。
で、その長男夫婦が息子のことを、つまり店主の孫をってこととですよ、その子を虐待していたそうなんですよ・・・
ホント酷い話ですよ。
そのお孫さん、K太とかいったかな。
まだ幼いK太君に対して殴る蹴る、という事を普通に・・そりゃもう朝起きて夜寝る、ってくらい生活の一部みたいに虐待してたらしいんです。
だから可哀想なことに幼いK太君にとっちゃ、この仕打ちが生活の一部になってたのかもしれませんがね。
この虐待が当たり前のことだと思ってるK太君にすれば、親に憎しみなんて感じなかったんでしょうね・・・」
私は突然の話に戸惑いながらも興味を覚え、運転手に話の続きを促しました。
「鬼畜のような両親はね、K太君を家から締め出してしまう、という事もしょっちゅうやってたんですよ。
そんなことを繰り返すうち、K太君は家の近くの優しいお祖父ちゃんがいる居酒屋へ逃げ込む、という事を覚えたんですよ・・」
私は孫の顔を思い浮かべ、怒りと悲しみでいっぱいになりました。
「・・それは酷いな、でも居酒屋の店主が・・」
私は背中にゾクッと冷たいものを感じました。
居酒屋の店主・・あの生気の無い、まるで死人のような・・
私が言葉に詰まっていると、運転手はバックミラーで私をチラッと確認してから口を開きました。
「ええ、ですが、まだ酷いのはここからでね。
ある日のことなんですがね、よっぽど頭にくることでもあったんでしょうな。
いつものようにK太を家から叩き出して、でK太は即座に居酒屋に逃げ込んだんです。
居酒屋まで逃げればK太は安全ですからね。
ところがね、父親が例の居酒屋まで追いかけてきたんですよ。
で、他の客も居たんですがね、父親は鬼のように真っ赤な顔をしていたそうです。
それでK太を見つけると、いきなり容赦なく蹴っ飛ばしたそうなんですよ。
K太は2メートルほど吹っ飛んで壁にぶつかったそうです。
でも店の客は止めるのことができなかったんです。
父親の形相が狂人みたいで、下手に止めたりしたら自分が殺されるんじゃないかって。
ただただ黙って暴力を見ることしかできなかったって・・・
そう、その日の父親は、まさしく狂ってたんですよ。
暴力が終わった時、K太君はすでに絶命していました。
それを見た親父さんはショックでその場にぶっ倒れたそうです。
当然ですよ、息子が孫を殴り殺すのを見てしまったんですから。
そして精神に異常をきたして入院してしまい、間もなく自殺しちまってね。
その店は誰も借り手が無くて廃墟のようになってしまったんですよ」
そこまで聞いて、私はハッッとしました。
「えっ、そんな、だって、私はさっきまであの店にいたんですよ!」
「ええ、あなたの事が羨ましかったんでしょうな。
ついつい呼び込んでしまったのでしょう」
私はそう言われて肝がつぶれるほど恐怖しましたが、同時に<そんな馬鹿なことがあるか>とも思いました。
ですが先ほどまで居酒屋に居たことも事実なので、何か頭が混乱しているようでした。
それとも、もしかすると運ちゃんに一杯食わされたのか?と思い、
「なぜそんな事が分かるのですか!」
と、恐怖を紛らわすように怒った口調で言いました。
運転手はバックミラー越しにチラリとこちらを見てから口を開きました。
「私ね・・・生まれつき霊感が強いほうでね・・・・見えちゃうんですよ」
「だから何がですか!」
私はほとんど怒鳴るように聞きました。
「・・ほら」
運転手は前を見たまま後ろを指差しました。
「・・ついて来ちゃったようですね・・」
私は急いで後ろを振り向きました。
そこには顔面痣だらけで右目が潰れている子供の顔と、あの陰気な店の親父の顔がガラスに張り付いて私を見ていました。
 


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