いない子

荒野のようだ。
その住宅街に来て、俺は一番にそう思った。
新興住宅地として開発されて10年以上経つらしいが、家はポツポツとしか建っておらず、整備されて白茶けた土地ばかりが見渡す限り広がっている。
そんな中、例えば池の主(ぬし)の大ナマズみたいに、ひときわ大きい屋敷が目を引いていた。
二階建ての、がっしりした洋風の造り。広そうな庭。

敷地の外側を、2メートル以上ある深緑色の植え込みが塀代わりに囲い、それが途切れた場所には石積みの門と、両開きの立派な門扉がついている。
「この家です」
俺とたいして年齢の違わなさそうな不動産屋の社員が、その、主の屋敷の、隣の家を指差した。
「あ、こっちか…。そりゃそうだよな」
対照的にこじんまりとした、プレハブ風の二階建ての家を俺は見つめた。
四角い屋根と薄いクリーム色の壁が、夕陽を浴びてオレンジ色に染まっている。
もっとも大学生の男が一人で住むには、これでも過ぎた物件だ。
「この建物は、一応うちの会社の社員寮として使っていますので、最低限の家具はそろっています。
今は誰も住んでおりません」
若い社員が、その家の茶色っぽいアルミの門扉を開けながら言う。
「住んでないの? 何で?」
俺が尋ねると、社員は答えにくそうに頭をかいた。
「こう言ってはなんですが、車がないと不便なもので…。駅までかなり距離があるので、自転車でもちょっと…坂も多いですしね。
今乗ってきたバスは1時間に1本しか通っていませんし。
ああ、通学の際はお気をつけください。
午前中は毎回15分発です」
「げ。そう…」
「住民が増えればバスも増えるんでしょうが、それがなかなか…。そんなことで、この建物は今までもあまり使用されていないんですよ」
社員は家の鍵を開け、ドアのノブを回した。
扉が開くと、腰ほどの低さの小さい靴箱と、無機質な白い壁が目に入る。
実に殺風景だが、風通しはしてあるのか、こもった空気でもない。
「申し訳ありませんが、しばらくのあいだ河本様にはここで生活していただくことに…」
「ああ、別に構わないっすよ。どうせ1週間だけだし」
俺は室内をキョロキョロ見回しつつ、答えた。
この春、俺は晴れて大学に合格し、通学することになった。
実家からは遠い大学だったので、学校に近い沿線のアパートを借りて一人暮らしをする予定でいた。
ところが俺が住む部屋の、前の住人が引っ越すのは、あと1週間後だという。
不動産屋の手違いだ。
直前になってこのことがわかり、しかし大学は明日から始まってしまうので、部屋が空くまでの期間、俺は別の手近な場所で暮らすことになったのだ。
「ガスも電気も通っています。室内は昼間にうちの社の者が掃除しておきました。
それから、余分に発生する交通費なども、当社で負担いたしますので」
ひたすら腰を低くしながら、若い社員は家の鍵を俺に渡した。


一人になった俺は、さっそく家に上がった。
当面の着替えなどが入ったカバンを床に下ろし、部屋を見て回る。
話の通り、必要なものは過不足なくそろっていた。
一階のリビング風の洋間にはソファとテレビがあり、風呂の脱衣場には洗濯機があった。
台所には食卓と冷蔵庫と、食事はコンビニ弁当ですますつもりだが、小型の炊飯器も置いてある。
窓にはすべて、目隠しになる厚手のカーテンが掛かっていた。
「へえ。どれも全然痛んでないな」
新品とまではいかないにしろ、家具も電化製品も、さほど使った形跡がない。部屋自体も、こぎれいな感じだった。
階段をのぼって二階に行くと3部屋あって、こちらはどの部屋もガランとしていたが、そのうちの1部屋にパイプベッドが1台あった。
まだ新しそうな布団も敷いてある。
「もったいないな。使ってないんなら、俺、こっちに住みたいよ。…まあ、バスが1時間に1本だけっていうのは、ちょっとネックだけどな」
などと俺は独り言をいい―それなりに、気にも入っていたのだ、この家を。
始めのうちは。

明日の入学式に備え、俺はその日ははやばやと、夜の11時過ぎに寝ることにした。
二階の、ベッドのある洋間を使う。
布団に入り、うとうとしだした頃、俺は車のクラクションの音で現実に引き戻された。
プァン、と軽くクラクションが一回、家のすぐ近くで鳴り、車のドアが閉まる音がした。
続いて門扉が開き、閉まる金属音、何やら人の話し声、そして家のドアが閉まる音。
俺が寝る部屋は、隣の、例のあの大きい屋敷に面していた。家人が帰ってきたのだろう。
しかし夜中にクラクションはよしてほしいものだ…。
俺は目を開けることなく、寝返りを打った。
ふたたびうとうとした時、別の車のエンジン音が通りで聞こえた。また隣の屋敷の前で止まったようだ。
車のドアが閉まる音がして、先ほどと同様に門扉が開く気配があった。そして人の話し声、すぐに声が小さくなり、家のドアが閉まる音。
俺は目を開け、窓を見た。
暗い部屋の中で、閉めたカーテン越しの月明かりが、窓を明るく浮かび上がらせていた。
今日は満月だろうか。
もちろん外の様子は見えない。
そうしているうちに、また別の車のエンジン音が近づいてきた。
隣で止まり、と思うとゆっくりと方向を変えるような、タイヤがアスファルトを踏む音。
また止まって、またエンジンを噴かして、車の位置を動かす音。
どうも車庫入れに手間取っているようだ。
(自分の家のガレージだろ)
俺は起き上がり、窓際に立ってカーテンの端を少し開けた。
やはり満月だ。眩しいくらいの白い月が、黒い空で照っていた。
しかしガレージも、隣の屋敷の玄関も、その位置からは見えなかった。
ただ、隣家の側面の壁の一階部分で、塀代わりの植木の隙間から、窓明かりがちらちらと光るだけだった。
じきに、無事に車庫入れがすんだのか、車のドアが閉まる音がした。門扉の鉄が擦れる金属音、そして人の声。
よく聞くと、それなりに年齢のいった男たちの声のようだ。思えば、先に家に入った二人もそうだった気がする。
そんなことを思っているうちに、玄関のドアが閉まった。後には静寂。
俺は窓を開けてみた。
俺がいる家と隣の屋敷のほかは、この近所には家がない。黒い夜空に、空き地がさらに黒く沈んで見えた。
とても静かだった。どこからも、何も、聞こえない。
「……」
俺は何か違和感を感じつつも、窓を閉めた。

その後も俺は眠ろうとしたが、小1時間ほどベッドで寝返りを打つだけに終わった。
すっかり目が冴えてしまったようだ。
しかたなしに起き上がる。
(だいたい、昨日まで夜更かししてて、急に早く眠れるわけないか…。
地元離れるからって、友達と徹夜で騒いでばっかりいたもんな)
俺は一階に下り、寝巻き代わりのジャージのまま靴をはいた。
(確かバス停の近くにコンビニが一軒あったはず。歩いて5、6分だろう)
散歩がてらにぶらぶら歩くつもりで、俺は玄関を出た。
門を出たところで、俺はついつい隣の屋敷のガレージに目をやった。
家に比例して余裕で5、6台は入りそうな、やたらと大きいガレージだった。
植え込みの外側に沿ってコンクリートの土台が延び、アルミの骨組みの屋根がついている。
家に対して直角の形で車が入る形だ。ちょうど街灯の下にあって、その付近だけ特に明るかった。
そこには、4台の車が止まっていた。
そういえば、俺が夕方ここに来た時には、赤い車が1台あった気がする…。
案の定、俺から一番奥に見える場所には、スポーツカータイプの赤い車が止まっていた。
(うん?)
俺は、それよりも、一番手前にあった白いセダンに目を止めた。左の側面に、こすったような幅10センチほどの黒い跡がついていたのだ。
さっき車庫入れに手間取っていたのはこの車だろうか。そして、その跡の、すぐ下の部分には、別の傷がついていた。
俺はその傷が気になって、近寄ってみた。
くぎで引っかいたような細い線で、英語の文字が書いてあった。
『 H E L P 』と。
通行人がいたずらでもしたのだろうか…。
気になりながらも、俺はそのままコンビニに足を伸ばした。
軽く雑誌を見てからペットボトルのスポーツドリンクを買い、月明かりと街灯を頼りに、もと来た道を戻る。
ふたたび隣の屋敷のガレージが目に入った時、おや、と俺は思った。
車が2台に減っていた。
残っているのは一番奥の赤いスポーツカーと、手前の白いセダンだけ。
また出かけたのだろうか。さっきコンビニを出る際に時計を見たら、もう午前1時近かったが…。
「あれっ?」
俺は今度は軽く声を出した。白いセダンに、先ほど見たはずの『 H E L P 』の文字が見当たらなかったのだ。
違う車のはずはない。傷の上にあった黒い跡は、ちゃんとついているのだから。
俺が首をひねっている時、隣の屋敷の玄関が開く音がして、話し声が流れてきた。
「…そういえばさ、この前の子、何でいなかったんだい」
俺は反射的にガレージから離れ、自分の住処に足を向けた。門扉の取っ手に指をかけ、見るともなく振り返る。
40代ぐらいの、スーツ姿のサラリーマン風の男が、隣家の門から通りに出た所だった。
敷地内にはもう一人、男がいるのが見える。
「今日は風邪でね」
内側にひらいた門扉に寄りかかるようにして、中の男が無表情に答えた。30歳前後だろうか、丸刈りに近い髪型で、少々派手なシャツを着ている。
人相も悪く、言うなれば『チンピラ風』だった。
「そうか。ならしょうがないね…」
スーツの男が、言いながらこちらに顔を向けた。そこで俺の存在に気づく。
目が合った。
男は一瞬、なぜか怯えたような表情をし、サッと目をそらした。例の白いセダンにそそくさと乗り込む。
(家の人間じゃなく、客だったのかな。先になくなってた車も、客のだったのか)
急発進して去っていく車のテールランプを眺めつつ、俺はそんなことを考えた。
それからふと視線を感じ、隣の屋敷の方をふたたび見る。
すると、チンピラ風の男が、まだ門のそばに立っていた。かなり鋭い、威嚇するような目つきで、俺の方を睨んでいた。
(うわっ、何だよ)
俺は驚いて―というかビビッて―体を硬くした。
男はいかにもいまいましげな表情で、だがそのまま無言で門扉を閉めた。
「……」
男の姿が消え、俺は胸をなでおろした。が、ちょっと悔しい。何で俺がビビらなきゃならないんだ。
俺はかなりささやかな抵抗として、名前を確かめようと隣の屋敷の表札を探した。
だが、門柱にもどこにも、表札はついていなかった。
(なんか…いろいろ変な感じだなあ)
俺はすっきりしない気分で家に入った。

ようやく眠りについた俺が、次に目を覚ましたのは、寒さのせいだった。
厚手の掛け布団を使ってはいるのだが、やたらと寒気がしてしかたなかった。
この土地は、春先だと朝晩はこんなに冷え込むのだろうか?
しまいには寝ていられなくなり、俺は起き出して部屋の明かりを点けた。まだ外は暗かった。
ベッドの脇に置いていた携帯電話で時間を見る。午前2時。
「毛布ぐらいあるかな…」
その部屋には引き戸の押入れがあった。俺は取っ手に手をかけた。
少し重めの扉を、力を込めて開ける。
ポッカリ空いた薄暗い空間の中には、毛布が数枚、きれいに畳んで重ねてあった。
「助かった」
俺は1枚の毛布を広げ、明かりを消し、ベッドに戻った。毛布にくるまってその上から掛け布団をかけて、身を縮めた。
しかしまだ寒かった。異常なぐらいに。
もう一枚、毛布を足そうか…と、俺は布団から顔を出した。
その時だった。
俺はさっき窓だけ閉めて、カーテンを閉めるのを忘れたのだろうか。
カーテンの端が10cmほど開いていて、その向こうに、ギラリと光るものがあることに気づいた。
始めは何かわからず、俺はそちらを凝視した。そして息を飲んだ。
窓ガラスの下の方に、いびつな丸い影があった。人間の、頭だ。目から上だけの部分が、月明かりにシルエットとなって見えているのだ。
そこから下部は壁の向こうに隠れている。光っていたのは、カーテンの隙間から覗いた片目の、白目の部分だった。
(泥棒か?)
いや、むしろ泥棒であってほしかった。
じきにその人影は、ゆっくりと上に向かって移動しだした。スーッと、やけにスムーズな動きで、垂直に上昇し始めた。
カーテンの隙間の分だけ、ガラス越しにじかにその姿が見える。
白っぽい前髪、弾力の感じられない灰色の皮膚、ところどころ汚れた、毛羽立ったようなボロボロの服…。
月明かりの逆行で黒く見えるにもかかわらず、それはかすかに透けていた。
「ひ……」
この世のものではない。俺はそう直感した。
影は上昇し続け、ついには全身が見えるに至った。縦1メートルほどの大きさの窓の中に、頭からつまさきまでがすっぽりとおさまった。
つまりは小さい―恐らく、子供のようだった。
そこまで行くと影は止まり、今度は同じように滑らかに、下に向かって移動を始めた。
俺は声も出せず、その影を、その片方だけの目を見ていた。
輪郭がはっきりとしない、ぼんやりと薄青い瞳。
どこも見ていない。
生きていない。
しかし確かに俺の方を向いている…。
その目が窓の下側の桟に近づくまで下降すると、影は一旦動くのをやめ、また上昇を始めた。
そして全身を見せる位置まで昇り、また下降する。
それを音もなく繰り返す。時々、頭を窓の方に寄せながら。何かを確かめるように、窓に額をこすりつけながら…。

こっちに入ろうとしているのだ。

そう悟った時、俺の中で恐怖が爆発した。
「うわああああ!!」
俺は悲鳴ともつかない叫びを上げた。逃げようとしたが、手だけバタバタさせるばかりで、体が動かない。
金縛り―というよりは、多分腰が抜けたのだろう。
「うわああ、入ってくるなぁあ!!」
俺は布団を頭からかぶり、きつく目を閉じた。

いつの間に、俺は寝入っていたのだろう。気づくと夜が明けていた。
あんなに寒かったはずが、汗びっしょりだった。


あれは、悪い夢だったんだろうか。明るいうちは、そうも思えた。
俺は大学の入学式に出席し、その後は面白そうなサークルがないか見て回り、親しくなった同じ学科の奴らと飯を食いに行き、
その先でノリでナンパをして失敗し…
と、一見さっそく学生生活を謳歌し始めた。
が、必要以上にバカ騒ぎをしている自分に気づいてもいた。恐怖を追い出したかったのだ。
できるだけ帰る時間を遅らせ、あの家にいる時間を短くしたい、という気持ちもあった。
結局、俺は夜中の12時近くの最終のバスに乗り、逆に後悔した。真っ暗になったあの家に帰るほうが、恐ろしいというものだ。
バスを降りて5、6分歩くと、あの無味乾燥な四角い屋根が見えた。
「…よし!」
俺は覚悟を決めて玄関のドアを開け、1階の廊下と部屋のすべての電気を一気に点けて回った。
そして最後に、階段の電気を点ける。
俺は階段を見上げ、一瞬ためらった。
が、ほとんどヤケクソで駆け上がった。
なるべく周囲を見ないようにして、俺は昨夜の部屋に飛び込んだ。明かりを点けて真っ先にベッドに向かい、掛け布団と枕を引っつかむ。
俺はそのまま身をひるがえし、出口に走ろうとした。
だがその途端、ベッドの脇に落ちていた毛布に足をとられて、つんのめった。
「うわっ」
バランスを崩し、俺はとっさに壁に手をついて体を支えた。
枕を落としたものの、転ぶのは回避できた。
が、手をついた場所は運悪く、例の窓のそばだった。
カーテンが軽く俺の顔に触れる。
「わあっ!」
情けなくも声を上げ、俺は慌てて後ろに飛びのいた。
俺が暴れたせいでカーテンが揺れたが、すぐにおさまる。
カーテンは昨夜のままの、少し端が開いた状態だ。
俺は掛け布団を握り締め、しばらく窓と対峙した。
それから、思い切って、カーテンに手を伸ばした。
シャッ!と鋭い音を立ててカーテンが開く。
果たして、窓の向こうには…昨日のような影はなかった。
俺は大きく安堵の息を吐いた。
が、それも一瞬のこと。俺は気づいてしまった。窓ガラスが汚れていることに。
泥が乾いたような白っぽい汚れが、ガラス全体に無数についていた。
ひとつひとつは小さい―細いもので、例えて言うなら、土のついた髪をこすりつけたような感じだ。
触ると、手は汚れない。窓の外側に付着しているのだ。
(ゆうべ、窓を開けた時には、こんなものなかったよな…)
一瞬、嫌な気分になるが、すぐに考え直す。昼のあいだに、この住宅地の付近にだけ雨が降ったのかもしれない。
鳥でも来て汚したのかもしれない。
その時、俺は窓の下方についている、ある汚れに目を止めた。
ほかのものと違って、それだけが、何かの形になっているようだった。
顔を近づけてよく見ると、それは英語の文字だった。
正確には、逆さまの状態だ。
いわゆる鏡文字で―
『 H E L P 』と、書いてあった。
「……」
俺は少しの間、ぼんやりとそれを眺めていた。
次の瞬間、弾かれたように部屋を飛び出した。
なぜ鏡文字なのか―答えは簡単だ。
窓の外から普通に書けば、室内から見れば鏡文字になる。
俺は階段を駆け下り、一階のリビングに入るとすぐさまドアを閉めた。
「俺は、今日からここで寝るぞ!」
妙に興奮して―結局のところ動揺して俺はそうわめき、持ってきた掛け布団をソファに投げつけた。
「枕なんかなくたってなぁ、これで、これで枕になるんだから。ほらな!」
ソファにまばらに置いてあった4個のクッションを、1個で十分なのに無意味に全部かき集める。
(…今日もあれが出るとは限らないけど…だけど、俺は二度と二階には近づかない!)
息を荒げつつ、俺はそう心に誓った。

その後、ビクビクしながら風呂に入り、俺がソファに横になったのは、午前の1時半頃だった。
家じゅうの電気を点けたままで、俺はなんとか眠ろうと目をつぶった。
外からは、また車の止まる音が聞こえていた。
ひとことふたこと会話をする声、そして玄関のドアが閉まる音。
それが何度か続いた。
むろん隣の屋敷だ。
まったく客の多い家だ。
しかし今となっては、人の気配がありがたかった。
俺は少し安心して、眠りに落ちていった。
何かが頭の隅に引っかかりながらも―。


どこだろう、ここは。
俺はとても暗い場所に立っていた。
窓もなく、電灯もない。ただ、少し上のほうから、横に一直線の形で、外の明かりが漏れ入っている。
あれは…ドアの隙間だろうか?
そうだ、ドアの、下の部分だ。よくよく見ると、うっすらと扉の形がわかるではないか。
そこで俺は、視線を感じた。ドアとは反対側に振り向くと、離れた場所に一人の子供が立っていた。
暗がりの中、なぜか様子が見て取れる。白っぽい短い髪は、どうも金髪のようだった。やたら体の細い、白人の少年だ。
7、8歳だろうか。
その薄青い瞳は、どこかで見覚えがあった。シャツと半ズボン姿だが、服も、そして裸足の足も、土か何かで茶色く汚れていた。
その子供は、俺に何かを言っていた。が、何を言っているのかはわからない。それが日本語ではないせいなのか、それとも違う理由なのか―多分両方だろう。
何かとても遠い、違う空間にいるような感じがした。
それでもその子は懸命に口を動かし、何かを訴えていた。
そしてふいに膝をつき、座り込んだ。
手のひらで地面を叩く。
そこには、背の低い植物がいくつか生えている。
俺はふと思う。ここは外だろうか、室内だろうか。
壁に囲まれているような圧迫感があり、室内のような気がしていたが、植物が生えているのなら屋外なのだろうか。
なるほど、確かに足下は土の地面で、床やコンクリートではなかった。
そこから、小さな草が生えているのだ。
風もないのに草は揺れていた。妙な揺れ方だった。滑らかさのない、ぎこちない動き。
関節でもあって、そこから曲がるように動く。
やけに厚ぼったい草で、その先端には丸みがある―
草ではない。
俺はやっと気がついた。
あれは指だ。
いくつもの小さな手が、土の中から突き出ているのだ。
その時、差し込んでいた光が突然大きくなった。
ドアが開いたのだ。
俺は背後を振り返る。
ドアのすぐ向かいには壁があり、その上のほうに窓が見えた。
窓ガラスの向こうには、明るい屋外の景色があった。生い茂った深緑色の木々と、白っぽい四角い屋根。
そして抜けるような眩しい青い空―。


俺はそこで目を覚ました。
(夢だったのか…)
思う間もなく、なぜ目が覚めたのかを理解する。
物音がしていた。
コン、コン、と、ガラスを叩くような音が、いつの間にか断続的に聞こえていた。
そう大きな音ではない。どこか離れた場所で鳴っている…。
点けっぱなしの明かりのもと、俺はテレビの上の置き時計に目をやった。午前2時。
辺りを警戒するように、俺はゆっくりと体を起こした。
耳を澄ますと、音はどうも階段の上、二階の部屋から来ているようだった。
すると突然、ゴン、ゴン、と音が大きくなった。
俺は、昨夜の影が、窓ガラスに頭を打ち当てる様子を想像した。
しだいに音はゴォン、ゴォンと、今にもガラスを破らんばかりに重く鈍く響き出し、やがては窓全体を震わせた。
ついには窓の桟が軋み始める。
俺は恐怖に耐えかねて、玄関に走った。外の方が安全な気がしたのだ。
門の外に出た俺は、真っ先に家を見上げて、二階の例の窓を確かめた。
その位置からだと、窓のある壁は垂直ギリギリの状態で見えた。
明かりの点いた窓の手前に、黒く溜まる霧のような影があった。
月明かりに少し透けた、小さい塊。灰色の顔がこちらを向く。
(気づかれた!)
そう思った瞬間、影は俺の目の前にいた。
俺の目の高さに顔があった。
バサバサとした藁のような白い髪、生気のない皮膚、焦点のあっていない薄青い瞳。
裸足の足は宙に浮いている。
「うわあ!!」
俺はきびすを返し、家の前の道路を横切ろうとした。が、影が素早く俺の前に滑り込んで立ち塞がる。
俺は向きを変えて空き地に逃げようとするが、また影が割り込む。
「よ…よしてくれ! 俺が何をしたって言うんだ!」
俺は身をよじり、隣の屋敷に向かって走り出した。影は俺の後ろにピッタリと添うようにして追ってくる。
俺は発狂寸前で隣家の門扉を開け、玄関のドアに飛びついた。
取っ手をガチャガチャやるが、ドアは開かない。鍵がかかっているのだ。
が、その時ドアの向こうで、カチリ、と鍵を外す音がした。隣人が気づいたのか。
とにかく俺はドアを開け、屋敷の中に飛び込んだ。

そこには、俺が無意識に予想していたものがなかった。
すなわち靴箱、家人の靴、家に上がる段差、何よりも、鍵を開けた人間の姿。
玄関から廊下、二階への階段にかけ、床全体に赤い絨毯が敷かれていた。どうやら店やホテルのように土足で上がる形式らしい。
やけに静まりかえっていて、人の気配がない。
一階の、天井から突き出た3個の正方形の照明が、玄関の正面に真っ直ぐ延びる、少し長めの廊下を照らしていた。
廊下の片方の壁にはいくつかの窓、もう一方の壁には、いくつかの扉。
その中で一番手前の扉だけが開いていた。
そこから、昨日会ったあのチンピラ風の男が、憤怒の表情で出てきた。
「あ…た…助けてくれ!」
俺が言うより早く、男は怒鳴った。
「てめえ、どうやって入ってきたんだ!? 鍵がかかってただろう!?」
そんなことは知らない。誰かが開けたんだろう。こっちはそれどころではない。
この男には、俺の背後の影が見えていないのだろうか?
「何のつもりだ、ああ!? ここが何をやってる所か知ってて入り込んだのか!?」
男が俺の胸ぐらをつかむ。
その時、俺の背後が突然ひんやりとした。氷のように冷たい、小さい指―あの夢で見た草の指のような―が、俺の背中をペッタリと触る。
白い髪が視界の端に入った。
「うっ、うわっ、うわぁっ!!」
俺は男を押しのけ、屋敷の奥に走った。廊下を駆け抜け、だがすぐに行き止まり。
目の前は壁。右に扉。左に窓。
俺は逃げ場を探して窓の外を見上げた。
塀代わりの植え込みの上に、俺が今住んでいる家の、二階の部分が見えた。
ちょうどベッドのある部屋の、例の窓の少し上あたりだ。
月明かりに浮かぶ、その四角い屋根に、俺はあっと思った。
それは、先ほど夢で見た屋根だった。ただし、夢よりは低い場所にある。
夢と同じ高さにしようとすると―。
俺は右の壁、廊下の一番奥にある扉に目を這わせた。
ノブに手を伸ばす。
「てめえっ、何する気だ―」
追ってきた男が言うと同時に、ドアの向こうでカチン、とまた音が鳴った。
施錠を外す音のようだ。
「!? 何で…」
男がギョッとした表情で、足を止める。
俺はノブを回した。
ドアを開けると、暗がりの中、短い階段が下に向かって延びていた。
その先にはまた扉が1つ。
俺は何か使命感に駆られてその階段を下り、扉に近づいた。みたび中から、鍵が外れる音がした。
「…中には誰もいないはずだ…。いるはずがない…」
俺の後方で男がうめく。
俺は扉を開けた。
ギギィ…と、乾いた音を立てて扉は開いた。
廊下から漏れた光が、地面を照らした。そこは土間になっていた。というか、正確には床をはがしてあって、下の土が剥き出しになっていた。
部屋の隅にはわずかに床板が残っている。
そして土の表面には、細い、白っぽい棒状のものが、ところどころに散らばっていた。
近寄らなくても、俺はそれが何なのか知っていた。
ネズミが食い散らかしでもしたのだろうか。
とても小さい、大人のものではない―人間の骨。
「何人いるんだ……」
俺は声をしぼり出した。先ほどまでの恐怖が、怒りに変わっていた。
「何人殺したんだ!」
俺は振り返り、男を睨んだ。
「お…俺がやったんじゃない! それに、埋まってるのは外人のガキ一人だけのはず…」
「じゃあおまえ、掘り起こしてみろよ! 一人なもんかよ!!」
俺は怒りに震えて叫んだ。
男は顔色を失った。
その背後には、他の部屋にいたらしい中年の男が3人立ち、なにごとかとこちらの部屋を覗いていた。
いつの間にか、影は姿を消していた。
廊下の窓からは、四角い屋根と遠くの空が見えていた。
ちょど、あの夢で見た角度で。

どうして俺は気づかなかったのだろう。
あの影は、少年は、決して俺の住む家の中には出なかった。
そう、いつも外から―隣の屋敷から、助けを求めに来ていたのだと。


警察の手が入り、すべては明るみに出た。
あの屋敷は、幼い子供ばかりを働かせている売春施設だった。
男も女も関係ない、ただ子供ならいいという、異常な小児性愛者が対象の。
しかも、普段は屋敷の奥に子供たちを閉じ込めて、利用価値がなくなると、殺して地下に埋めていたのだ。
子供たちは、主に生まれてすぐに集められ、ある程度の年齢まで別の場所で育てられ、屋敷に送り込まれていた。
どこかからさらわれて来たわけではなく、親に金で売られたそうだ。
だから戸籍もなく、国籍もない。
屋敷からは8人の子供たちが生きて保護されたが、身元を特定するのは難しそうだった。
もちろん、素人ができるような規模の犯罪ではない。
背後には暴力団組織が関わっていた。
チンピラ風のあの男は、つい最近店番を任されたばかりで、殺害と遺体遺棄にはまた別の人員が動いていたらしい。
異常な性癖の顧客のリストも併せて、詳しいことは今警察が捜査している最中なわけだが―屋敷自体も、始めから目的を持って、防音設備まで整えて建てられていたそうだ。


あの後、俺はすぐにあの住宅地を離れ、大学でできた友達の家に少々強引に泊めてもらって、残りの数日を過ごした。
マスコミと野次馬であの界隈が大騒ぎになったせいもあるが、とても住み続ける気にはなれなかった。
恐怖心はもうなかったが、あまりにも、いたたまれなかった。
たくさんの子供たちが酷い目にあい、ひっそりと短い人生を閉じていたことを思うと。
まるで始めからこの世にいなかったかのように、殺されても探す者もなく。
地下で発見された遺体は、全部で十六体あった。
調べたところ、ほとんどが東洋人―恐らく日本人だという話だ。
そのうちで、白人は一人だけ。
検死の結果、亡くなったのはほんの数日前だったという。


今でも俺は、ふと思うことがある。
もし、俺があと少し早くあの家に来ていれば、あの少年を生きて助けることもできただろうか、と。
なぜ俺にだけ少年の霊が見えたのかはわからない。
助けを求められる人間が、あの場にほかにいなかったからなのか―。
はっきりとわかることは一つだけ。
あの窓から見えた、四角い屋根の向こうの青空は、とても眩しいものだった。

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