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とうま◆QOo/wCnU9w@特選怖い話:2022/07/25 18:42 ID:Gdt7zcuY

またいくらかの時間が経ってしまった。
 姉について色々と書き記してきた結果、俺には一つの変化が起きていた。徐々に夢を見るようになったのだ。
 昔の夢を。
 本当は最初からソコにあったモノ。
 ただ、俺が頭のどこかにしまい込んでしまっていたもの。
 過ぎてしまった日々を夢に見ながら、続きを記すべきかを悩んでいる。
 開けてはいけないかもしれないモノに触れるべきか、このまま深く閉じておくべきなのか。

 今年もまた春が来て、過ぎ去ってしまった。
 これもまた、閉じておくべき記憶なのかもしれない。
 忘れてしまいたいのか、覚えておきたいのか。俺は決める事ができずにいる。

 今日は『箱』の話をしようと思う。
 春が終わって初夏も過ぎようとしていた、『青い鬼』とまみえてさほど経たない、ある日の話である。


 まだ夏になりきる前の蒸し暑い初夏の日。
 『青い鬼』の一件からはすでに二週間ほど経とうとしていた。
 あれ以来、夢だったんじゃないかと思うぐらい平穏な日が続いていた。姉もいたって普通に、学校と家と図書館とを行き来している。
 父も最近は仕事が忙しい様子で、『普通の家族』のような日常を過ごしていた。
 俺はというと、学校近くの公園でコノミさんを待っていた。
 握った手の中には、『青い鬼』にまつわる怪現象に悩まされていた時にもらった、小さな白い紙の袋があった。
 これをコノミさんに返すのが、今日の目的だった。

 ずるっ、ぐちゃ、にちゃ、ぎちゅぐじゅ、べたっべたっ。

 未だに俺を取り囲んでいたあの足音は忘れられない。
 『青い鬼』が姉と関わった事で消え去り、もうアレにー死者たちの足音におびやかされる事が無いとわかっていても、恐怖の記憶とその音は俺の記憶にしっかりと刻み込まれていた。
 それでも終わったとわかっているなら、二週間近く過ぎてしまったけれど、このお守りと呼べる白い袋はコノミさんに返すべきだろう。
 T君と共に訪れていたあの異常な足音が、コノミさんにこれをもらった途端ぱたりと止んだのだから、悪いモノを寄せ付けない力があるのは俺にだってわかる。もしかしたら貴重なもので、本来ならコノミさんが自分の身を守るものなのかもしれない。
 あげると言われていたけれど、ヒトでない恐ろしいモノを退ける力があるお守りをただもらったままでいるのは悪い気がして、俺は姉にコノミさんへ『返したいものがあるから公園で会いたい』と伝言を頼んでいた。
公園に着いてから10分ほど。時計は3時半になろうとしている。
 ぼんやりと時計を眺めていると、
「弟くん、こんにちは」
「うわっ」
 いつのまにか背後までコノミさんが近づいていた。気配も足音もまるで感じなかったため、俺は飛び上がるほど驚いた。実際体はびくっと跳ねて、大げさに振り向く羽目になった。
「こ、こんにちは」
「驚いた?」
「すごく驚きました」
 コノミさんは穏やかに笑んでいる。
 あの日とは違って笑顔なのに、あの日と同じようにコノミさんは綺麗な人形めいた不思議な存在感をしていた。
 もうほとんど夏の日差しだというのに相変わらず日に焼けた様子もなく、真っ白な肌をしている。さらさらとした黒く長い髪が、時折吹く風に少しだけ揺れていた。
「お守りを返そうと思って」
「お守り?」
「これ、あの時くれたじゃないですか」
 俺は手の中にあった白い袋を返そうと、コノミさんに見せる。あぁ、と、今思い出したと言った様子でコノミさんは小さく曖昧に頷いた。
「これがあったから、俺すごく助かりました。ありがとうございました」
 差し出したが、コノミさんが受け取る気配は無い。
 少し考えるように首を傾げてから、
「弟くんは律義だね。・・・・・・いいよ、返さなくて。それ、お守りじゃないから」
不思議な事を言った。
「え」
「お守りって、大事に思ってくれてありがとう。弟くんがそう思ってくれるなら、ソレはお守りだから。持っててあげて」
「でも、貴重なものなんじゃ」
「弟くんのところでなら貴重なモノでいられるね。だからお願い。持っててもらえるかな」
「・・・・・・はぁ」
 なんだか要領を得ない、よくわからない会話になっていた。
 お守りではないらしい。
 持っててほしいと言われれば、それ以上断る理由も無い。
「じゃあ、もらいます。大事にします」
「うん、よろしくね」
 はいと頷いて、俺はポケットに白い袋をしまい込む。何かの粒を包んだ、白い紙の袋。お守りじゃないなら、これはなんなんだろう。
 ざあっと急に強い風が吹いて、雲が陰った。
 コノミさんは笑っている。人形のように真っ黒な瞳が俺を見ている。
「弟くんはいい子だね」
 にわかに雨が振りそうな気配になってきた。
 真っ黒な雲がすごい速さで空を流れていく。
 ぱらぱらと雨粒が落ちてきた。雨宿りをしないとまずい様子に、俺達は公園の東屋へ向かう。 
「世の中には悪い子の方が多いのに」
 それは小さな声だった。聞き間違いだったかもしれない。
 けれど。
「おい!待てよ嘘つき女!!」
 呟かれた言葉を聞き返すより早く、やや低い少年の怒鳴り声が響き渡った。振り返ると、怒りに満ちた表情の男子中学生が立っていた。
 どこからか走ってきたのか、少し息が上がっている。
「お前のせいだ!お前のせいだろう!!責任取れよ!!」
 怒りも露わに、その男子中学生はこちらに向かって何かを投げつけた。カツン、カラカラっと音を立てて俺達の足元に転がったのは5cmくらいの木の箱に見えた。
 煤のような何かで表面が薄汚れている。
 一方的に吐き捨て、わめきたてる姿に、コノミさんはすっと表情を消した。

「悪い子」

 温度も何も無い無感動な声音は、まるで知らない人のようだった。
ざわざわと鳥肌が立つ。
 何か良くない気配がする。
 何かが集まって来そうな気配。『青い鬼』の時に感じたのとはまた異質な、でも明らかに不味いモノがいて、それが近づいてきて囲まれるような感覚。
 男子中学生は何も感じていない様子で、口汚くわめき続けている。
 ゴロゴロと雷が鳴りだした。

「悪い子はどうなると思う?」

 誰に問いかけたという感じでもなかった。強いて言えば、宙に向かって話しかけていた。
 コノミさんは少し歩いて、投げつけられ転がったままの箱の所へ行くと、それを軽く踏みつけた。
 少しずつ、少しずつ、細い足が踏んだ木箱に力をかける。キシ、キシッと箱が軋む音がする。
 一息につぶせそうなものを、ゆっくりと、ゆっくりと。
「どうなると思う?」
「やめろ、コノミ」
 箱が一際ギシッと音を立てたその時、意外な声が割って入った。
「・・・・・・ゆきちゃん」
「ひとまず、ソレから足をどけろ。とうまの前だぞ、壊してどうする」
 降り始めた雨の中、傘をさした姉が近づいてくる。
 つかつかと近づいて来た姉は「持ってろ」と俺に畳んだ傘を渡すと、コノミさんに向かってわめき続ける男子中学生に、
「やかましい」
その顔の前でまるで猫だましの様に一発パンッと柏手を打った。
 俺達の周りを取り巻いてナニカの気配が、一瞬で離れていく。
「あ・・・・・・俺?あれ・・・・・・」
 尋常でなかった様子の男子中学生が、正気に戻ったように目を瞬かせた。
 実際正気に戻ったのだろう、自分が今何をしていたのか思い出したのか、みるみる青褪めていく。
雨は本降りになり、雷は激しさを増す。
 俺達は否応なしに東屋に退避し、
「やっと捕まえたぞ、K。何をやらかしたか、ようやくじっくり訊けるようで嬉しいよ」
笑顔で激怒した姉と相対することとなったのだった。 


「・・・・・・最初は鳥の声が聞こえたんだよ」
 東屋の椅子に腰かけて何事かの始まりを待っていると、心底憂鬱そうな声でうめくようにKさんは語り始めた。
「一週間ぐらい前の夜、家の外のどっか遠くから『ホォー、ホォー』って梟?みたいな鳥の声がしたんだよ。俺の家、住宅街にあるのに珍しいなって思って、窓開けて外見たんだ。でもまあ、梟だったとしてそんな簡単に見つかるわけないよな。やっぱり鳥の姿なんかなくてさ、どっかから聞こえてくる鳴き声のことなんか、あっという間に忘れたんだ。その日は」
 Kさんの口調は重い。
 さっきコノミさんが踏んでいた木箱は、今は東屋のテーブル中央に置かれていた。
 土埃が付いたままの箱を姉が拾って、そこに置いた。 
「なんか気がつくと聞こえるんだ、その『ホォー』って声。しかもだんだん近づいて来てる。二日くらいはそんな事もあるかって思ってたけど、昼間に学校の中でも聞こえたんだよ。さすがにおかしいだろ?山のそばでもないのに」
 鳥の声が聞こえる。それがだんだん近づいてきた。それは確かに変わったことかもしれないけれど、そんなにピリピリするようなことだろうか。
 男子中学生があんな風に取り乱すようなことではない気がするが、姉もコノミさんも特に口を挟まずに話を聞いていた。
「どこからそんなもんが聞こえて来てるんだって気になって、声の方にいったらさ、廊下の端に女子が立ってたんだ。ソイツの口から出てきてるんだよ、その『ホォー』って音」

誰もいない廊下に、その女子は立っていたという。
周囲を見回しても誰一人いない。放課後の部活動の時間だったから、たくさんの生徒がいるはずなのに。
 夕暮れの校舎、薄暗がりの中。
 ぽつんと立つ女生徒と二人きり。
 感情の読めない、鳥のような目でじっとKさんを見てくる。

「『ホォーウ、ホー、ホー、ホォーウ』」

 すぐ耳元でその鳴き声がして、Kさんは逃げ出したそうだ。
 恐怖で思わず振り返った時、女子はまだ遠くに立ったままだった。
 
「逃げてる間、ずっと俺を見てるってなんでかわかるんだ。夜に家の外からずっと聞こえてた鳥の声が、ソイツの口から出てたんだよ。なんなんだよ、意味わかんねえ」
「人が鳥の声を真似してるんじゃなくて、鳥の声が人の口から出てるのよね。人の喉から出てるのに、人の声じゃないの」
 指摘したコノミさんを、Kさんが睨みつけた。
「その女子は知った相手だったのか?」
「・・・・・・」
 姉の問いにKさんはうつむいた。知っているということなのだろう。
「相手は誰だ」
「Eっていう女子だよ。同級生の別のクラスのヤツ。一か月ぐらい前に、家まで押しかけてきたすげえ迷惑な女だよ。入学してわりとすぐに告られて断って、でもしつこく何回か告ってきて。断ってもなんべんも続いたから、さすがに迷惑だって言ったら、しばらく姿見なくなったから諦めたと思ってたんだ。そしたらある日いきなり家の前に立ってるんだぜ、勘弁しろって。結局帰ってくれって言っても聞かなくて、母親に見つかって、母親は母親で俺に付きまとってるのかって、めちゃくちゃキレるし、散々だった。最悪」
 ストーカーというヤツなんだろうかと、俺はちょっとゾッとした。
 よく知らない相手に付きまとわれるのはさすがに怖い。
 しかもその女子が、今度はナニカ別の生き物のように鳥の声を発して夜な夜な家の外にいたかもしれないとなると、普通の人間のできることでもなくなってくる。
「アイツなんなんだよ・・・・・・頭おかしいだろ」
人間の形をしていても、人間とは思えないようなナニカ。
「箱はどうやって手に入れた」
「手に入れたっていうより、知らない内にカバンの中に入ってたんだよ。最初はそんなに汚れてなかった。意味わかんねえからゴミ箱に捨てようとしてたら、ソイツが『お守りを捨てるのは良くない』とか言い出すから。霊感女が言うから一応持ってたんだけど」
 ソイツとコノミさんを睨む。怒っているような、恨んでいるような、怯えているようななんとも言い難い表情だ。
 しかし、嘘つき女呼ばわりの次は霊感女ときた。
 中学校でコノミさんはそんな風に呼ばれているんだろうか。
「だって守ろうとしてるんだから、『お守り』でしょう。だから捨てても『戻ってきた』でしょう?」
「お前なんでソレ知ってんだよ!」
 Kさんは激高した。立ち上がり、コノミさんに掴みかかろうとしたKさんがガクンとバランスを崩す。
「痛ってえ!なんだ!?」
 椅子に戻り、左足の脛辺りを抑えている。
 Kさんがズボンをめくって確認すると、そこには脛を挟むようにして赤い点が楕円状に並んでいた。気のせいでなければ、何か所かうっすらと血が滲んでいるように見えた。
 コノミさんは無感動な目でそれを眺めている。
 まるで当たり前の事が起きただけ、といった感じで。
「箱を捨てた?」
「捨てたよ!捨てたけど、またいつの間にかカバンに入ってた。気持ち悪い、こんなもんお守りなもんか!あの女は相変わらずいつの間にか遠くから俺を見てるし、鳥の声は止まないし!アイツ、俺の鞄を盗んだんだぞ!?それで何しようとしたと思う!?校舎の隅で俺の鞄に火をつけようとしたんだぞ!!どこが守ってるっていうんだよ!?お前が俺に変な事言うからだろう!お前のせいでおかしくなってるんだろう!!」
追い詰められているのだろうけど、Kさんがコノミさんにぶつけたのは言いがかりとしか思えない理不尽な怒りだった。
俺に何ができるわけではないけれど、こういう一方的な八つ当たりは見ていて腹が立った。ましてコノミさんのお守りに助けられた身としては、余計にKさんの言い分が不快だった。
「コノミさんはお守りは大事にした方がいいって教えてくれただけでしょう。捨てたりしたからバチが当たったんじゃないんですか」
「なんだよ、お前。かばってんじゃねーよ。ソイツはなあ、有名なんだよ。霊感があるとか、嘘ばっかいうとか、呪われてるとか。皆に言われてるヤツなんだよ」
「コノミさんは嘘なんかつかないです」
あからさまに不愉快と言った顔で、Kさんが俺を睨む。さぞや俺の事が生意気な小学生に見えたのだろう。
「私の弟にかまうな。それよりK、今は自分の問題だろう。箱はどうやって、どこに捨てたんだ」
「触るのも気持ち悪いから学校のゴミ箱に捨ててやったよ!無くなれば変な事も終わると思ったのに、なんでどんどんおかしくなってくんだ・・・・・・」
苦し気に顔を歪めたKさんは、どんどんと語尾を弱めていった。
「捨てたのは2回、ソレは3箱目だろう。学校にそんなものを捨てるとは、余計な真似ををしてくれる」
姉が東屋の机の上に、2つの木箱を投げた。カツンと音をたてて転がったソレは、すでにあった箱とほとんど同じモノに見えた。
 Kさんは恐怖の表情を浮かべ姉と箱との間で、視線をいったりきたりさせていた。
「悪い子」
 コノミさんが囁くように呟く。
「同感だ。おかげで余計な被害が学校で出た。お前のせいだぞK」
「箱捨てたぐらいで何だってんだよ」
「反省もしない、悪い子」
「バカにかまうな、コノミ。だが、このままじゃ私達が迷惑だ」
「放っておけばいいのに。少しすれば元通り静かになるでしょう?」
「いつになればおさまるか、はっきりしない」
「いつなのかは、ゆきちゃんわかってるくせに」
「・・・・・・・・・・・・」
 コノミさんは立ち上がった。
 自分の荷物をまとめると、
「私は悪い子は嫌い。無駄な事も嫌い。だからその子の事は知らない。手を貸そうとするゆきちゃんはもの好きだと思う」
「私もそう思うよ」
 姉は肩をすくめた。
「悪意には悪意が還る。恨みには報い。私はアナタの事、どうでもいいけど。助かりたいたいなら、助かる努力は必要。たぶんわからないアナタには無駄だけど」
 Kさんに言い残し、コノミさんはそのまま東屋を出て行った。
 いつの間にか雨脚は弱まっていて、今は明るい午後の光の中、わずかに雨粒が落ちるだけだった。
離れていく姿を目で追っていると、妙なものが見えた。
 コノミさんが歩く道の脇、地面に溜まった水たまりがぴちゃぴちゃと不思議に水しぶきを上げる。
 雨粒が水たまりに落ちているにしては、不自然な水の跳ね方をしていた。コノミさんの周囲だけをつかず離れず、取り巻くように移動して見える。
 コノミさんが遠ざかり、やがてソレも見えなくなった。
 なんだったんだろう、目の錯覚だろうかと俺は首をひねった。
 残されたのは俺達三人と、東屋の机に転がった箱が三つ。
「さて、K。助かるには努力が必要だそうだ。お前の努力は、助かるに足りると思うか?」
 再び雨足が強くなってきた。
 激しい雷が、音もなく空を割る。
あまりに強い稲光が目を焼いて、わずかのあいだ景色が見えなくなった。
「祟られなかった幸運を、まずは感謝するんだな」
 再び見えるようになった視界に、信じられないものが映った。
 東屋の机に転がった箱が、3つとも真っ黒に焼け焦げていた。煙こそ上がっていないものの、完全に炭化している。
 普通の世界は遠く、ここはもう境界の向こう側。
 カラ、と黒く焦げた箱の中、ナニカが音をたてた。


 ここはどこだろう。
 暗い夜の道を俺は歩いていた。
 電灯がぽつり、ぽつりと点灯しているがそれでも足元を照らすにも足りないほどのわずかな光でしかない。
 やがて俺は一軒の家に辿りついた。
 家の中も明かりは点いていないようだ。その辺によく建っている、外観の同じ家々。その中の一軒を選んで、玄関の扉に手をかける。
 やけに冷たいドアノブを回して、俺は家の中に入った。
 やはり中は暗い。だけど妙に室内ははっきり見えた。
 靴を脱がずに廊下を進むと、突き当りでキッチンらしい部屋に出た。
 暗いキッチンに女の人が立っている。肩甲骨の辺りまで、癖のある髪が伸びている。
 知らない背中。見たことの無い人。
 時々、包丁を使って何かを切る、ぶちぶち、タンッ、という音がする。
 女の人がこちらをゆっくり振り返る。うつむいていて顔は見えないが、エプロンが汚れていた。
 手に握った包丁も液体で汚れている。
 嗅いだことの無い嫌な臭いがした。
「『どうして』」
 女の人が呟く。
ゆっくりと顔を上げる。もう少しで顔が見える。
 女の人の背後にあるまな板の脇に何かある。綺麗な四角形。見たい、アレの中身が見たい。
「『どうしていうことをきかないの!』」
 女の人は怒鳴っている。口の両端がつり上がって、怒鳴りながら笑っている。
 女の人が顔を上げきった。でも目が合わない。目が無い。目があるはずの場所はからっぽで、まっくらな穴が開いていた。涙みたいに黒い液体が穴から溢れる。
「『悪い子はとりかえっこしましょうね』」
 女の人の手が伸ばされる。
「『ホォーウ、ホー、ホー、ホォーウ』」
目の前の女の人の、口から。鳥の声が溢れ出た。


 バチっと目が覚めた。
 心臓がバクバクしていてとても苦しい。
 夢・・・・・・夢だったのか。あんな夢を見たのは初めてだった。深く息を吸おうとするが、苦しいだけでうまく呼吸ができない。
 手足がしびれている。
 頭が痛かった。体がうまく動かないので首だけを回して周囲を見る。時計は朝の7時を指している。ちゃんと朝だった事にほっとしたが、すぐに違和感を感じてもう一度辺りを見渡した。
「!?」
 部屋のドアが開いていて、父が無言で立っていた。
 無表情に立ったまま、俺をじっと見ている。
「お、おはよう」
 なんとか声をしぼり出して、場違いな挨拶をする。喉がカラカラで俺の声はがさがさだった。
 父は何も言わない。ただじっとこちらを見ていた。
 背を向けると、無言で離れていった。足音からして、1階へ降りて行ったようだった。
止めていた呼吸をふーっと長く吐き出す。ようやく体が動いた。
「なんなんだよ」
 起きたばかりなのに、ものすごく疲れていた。
「とうま、入るよ」
 姉が声をかけて部屋に入ってきた。日曜日だというのに姉は中学校の制服に着替えていた。見慣れたその姿を見て俺はようやく現実感を取り戻せた。
「すぐに来れなくてごめんね」
 ベッドの端に腰かけて、姉が俺の額に手を当てる。
「熱は出てないみたいだね、良かった。隣の部屋に聞こえるぐらいうなされてたんだよ。あの人がいるから、すぐに来れなかった。ごめんね」
「姉ちゃん、俺変な夢見た」
「わかってる。『出して、出して』って、すごい声だった」
「お母さんは?」
「ご飯作ってるよ。お母さんを責めないでね。お母さんにはこういう事は聞こえないんだ。お母さんは『境界』の『あっち側』だから。とうまだって普段はちゃんとあっち側にいるんだよ」
境界線のあっちとこっち。
 俺が今いるのは、普段とは違う場所なのか。
 俺を見下ろす父を思い出す。普段からにこやかな人ではないけど、あんな風に物でも見るような目で見られた事も無かった。
「あんまり時間がないのかもしれない。とうま、辛いかもしれないけど、起きられる?」
「うん」
 姉が手を当てている額から、じわじわと違和感は抜けて体は楽になっていっていた。
恐怖感も頭痛も消えたので、体を起こす。今は普段と変わらずに動けそうだった。
「じゃあ、朝ご飯を食べたらKの家に行くよ」
 連れて行ってもらえるのか。意外な姉の言葉に、俺はびっくりして姉をまじまじと見た。
 いつもなら『おとなしくしてろ』と俺が奇妙な事に関わることを嫌がるのに。
「Kはたぶん忠告を聞かなかった。助かろうと自分で何も努力しなかったか、もっと悪い事をしたか」
姉は俺の額から手を離すと、ぎゅっと膝の上でこぶしを握りしめた。
「『助かりたいたいなら、助かる努力は必要。わからないヤツには無駄』か。コノミの言う通りになるのか・・・・・・」
 握りしめたこぶしに視線を落としたまま、姉は言った。
「二人とも、朝ご飯食べなさーい」
 階段下から俺達を呼ぶ、母の声がする。日常のやり取りのはずなのに、どこか遠くから聞こえているような気がした。
「行こうか」
「・・・・・・うん」
 なんだか妙に心細い。
 悪意には悪意。恨みには報い。コノミさんが言った言葉が、頭にこびりついたようだった。 


 Kさんの家がある住宅街は歩いて10分ほどのわりと近くにあった。
 いつもは通らない細い道を姉の案内で進む。進むうちに、俺は嫌な汗をかいていた。
 今朝夢で見た光景。夢で見た、知らないはずの家がそこには建っていた。
 唯一違っているのはこれから工事でもするのか、家の囲うように足場が組まれていた事だった。
 姉が躊躇もなくピンポーンと呼び鈴を鳴らす。しばらくして、不機嫌な様子のKさんがガチャリと玄関を開けた。
「おはよう」
「・・・・・・おう。親いねーから、あがれよ」
 Kさんの機嫌は良いようには見えなかった。一瞬俺達を睨むようにして、それから家の中へと迎え入れた。
 俺は恐る恐る中へ入ったが、そこは夢で見た家の中とはまるで違っていた。建ててまだ新しい事がうかがえる綺麗なフローリング。清潔そうな壁紙。
「俺の部屋2階だから」
 夢の中の家は床は古そうな木材で、壁もなんだか薄汚れていた。Kさんの部屋は玄関から入ってすぐ左手側の階段を昇った2階にあり、夢の家には階段は見当たらなかった。
 意味がわからないが、やはり夢はただの夢ということなのかと何だか拍子抜けしていると、姉は玄関から入って突き当りをじっと見ていた。
 突き当りは白い壁が広がっていて何もおかしな所は無い。
けれど姉の視線はそこを見つめている。
強張った顔でそこを見つめていたが、Kさんに促されて俺たちは二階へと上がった。
 Kさんの部屋はあまり片付いているとは言えなかった。いつも見ている姉の部屋が整然と片付いているので、余計にそんな気がした。
 散らばった教科書や漫画本、雑に脱いで椅子に掛けてあるままの制服。物を適当に部屋の隅によけたといった感じで、中央には一応座卓と座布団があった。
「神社には行ってないんだろう」
 座布団に座りながら姉が切り出すと、Kさんは「うるせーな」と返した。
「こんな小さい町で変な事がありましたって神社に行けるかよ。あっと言う間に噂になって、後ろ指指されるっつーの。大体祭りの時にしかいない神主に、何頼めって?お祓いか?鳥女に付きまとわれてるって?」
 Kさんの言い分に姉は溜め息をついた。
「私は神主さんに会えとも、お祓いを頼めとも言っていない。神社にお参りをしろと言ったんだ」
「同じだろ」
「違う」
 あの雨の日、別れる前に姉はKさんに四つの指示を出していた。

 神社にお参りして自分が今までに考えなしに言っていた暴言について懺悔し、今後の行いを改めると誓ってくること。それを守ること。
 その証拠として、今Kさんを悩ませているEさんという女子の家に行って、酷い振り方をしたと心から謝罪すること。
謝罪ができたら神社に戻って、三つの箱を鎮めてくれるよう深くお願いすること。
 親のアルバム、特に母親のアルバムを探しておくこと。

「箱はどうした」
「壊そうとした。金づちでぶっ叩いてもダメだったけど。見たくも無いから鞄に放り込んである。持って帰ってくれよ」
「お前は・・・・・・本当に救いようが無いな。もういい。アルバムは?」
「あったよ。そんなもんがなんだってんだ」

 Kさんは床の隅から2冊の分厚いアルバムを引き寄せて、座卓に乱暴に放り投げた。  Kさんの横柄な態度に、俺はだんだんと腹がたってきた。T君は姉である恵さんを助けようと、自分なりに必死に努力をしていた。
 それに比べてKさんはどうだ。文句を言うだけ、自分では何もしない。 
なのに、厄介だとわかっている『箱』は無責任に姉に押し付けようとしている。
 姉は特に気にした様子も無く、目の前に放られたアルバムをめくり始めた。
 親の世代のアルバムだから厚い台紙に写真を張り付ける型式の古い物だった。カラー写真だけどあまり綺麗ではない。写真の大きさも小さかった。
 Kさんの母親だという人が子供の頃の写真がいくつも映っている。おじいちゃんおばあちゃんと野菜をとる写真。公園で遊ぶ写真。お母さんお父さんと遊園地に遊びに行ったのだろう写真。
 その中に、キッチンというよりは台所でお母さんの料理の手伝いをする一枚があった。
 俺は思わず息を飲んだ。夢に出てきた、女の人が立っていたあのキッチンにそれはよく似ていた。
次のページをめくった姉の手が止まる。
 七五三か何かだろうか。着物を着てめかしこんだ少女が、綺麗な組木細工の箱を手にもって小首を傾げ、ポーズをとった可愛らしい写真が貼られていた。
 組み合わされた木で綺麗な模様が色々と描かれたその箱は、とても高価そうに見えた。
 他には毬や扇を手に持ち、すまし顔や笑顔で映った少女が続いている。
「へぇ」
 興味深そうに姉はそのページをしばらく眺めていた。
 気が済んだのか、1冊目の3分の2ほどを確認した後2冊目へと移る。2冊は手早くめくっていく。今度は大人になった姿の女の人が写真に記録されている。
 何気ない日常の写真から結婚写真に続き、赤ちゃんを抱えた写真が出てきた時、姉の手が再び止まった。
 そこには幸せそうな女の人と、小さな赤ちゃんと『命名 R』と筆文字で記された紙が病室に貼られたものが映っていた。
「これは誰?」
 Kさんとは違う名前の赤ちゃん。Kさんもその写真に驚いたのか身を乗り出して覗き込んできた。
「知らねー」
 写真の隣に手書きで添えられた紙に、『●●年XX月 R誕生』と記されている。
 Kさんは一人っ子だという。
「ただいまー」
 一階から女の人の声が聞こえた。げぇとKさんが顔を歪める。
「ばばあ、もう帰って来やがった」
「お母さんか」
「そうだよ」
 母親に対する言葉に俺はびっくりした。自分の親に『ばばあ』などと呼ぶなんて、俺の家では考えられないことだ。それとも、他の家ではそんなものなのだろうか。
「お客さんが来てるなら麦茶ぐらい出したんでしょうねー?」
「うっせー!ほっとけよ!!」
何度も思ったがKさんは口が悪すぎる。それに態度も横柄で乱暴だ。こんな人に姉が力を貸すのかと思うとうんざりした。
 誰かを嫌いだと思う事は少ない俺にしては珍しいことだった。
 すぐに階段を昇る音が聞こえてきて、ドアががちゃりと開けられた。お盆に三つの麦茶を乗せて、Kさんの母親が入ってきた。

「やっぱり女の子が来てたのね」

え?
 聞き間違いかと思うような小さく早い呟きだった。
「はじめまして。お邪魔しています」
「はじめまして」
 姉が床に手をついて頭を下げるのに続いて、俺も頭を下げる。祖母の教えで、俺達はよそのお宅に遊びに行った時はこんな風に挨拶をする。祖父母の家から出て離れてはしまったが、教えてもらった事はこうやって俺達の姉弟の中にしっかり残っている。
 もう3ヶ月以上会っていない。父が嫌な顔をするからだ。
「あらあら、ずいぶん丁寧な子達ね。はじめまして、Kの母親です」
 頭をあげて、俺は目を見開いた。
癖のある長い髪。夢でみた、女の人によく似ている気がする。夢では顔は見えなかったけれど。
 それ以上に俺が驚いたのは、Kさんの母親が俺の母よりは10歳、下手をすると15歳以上は上だろうと一目でわかったからだ。何歳ぐらいなのだろう。失礼だろうけど、しわの多い、くたびれたように見える顔は俺の母に比べてずいぶんと老けて見えた。
 その辺りもあって、Kさんは『ばばあ』なんて呼ぶのだろうか。
 どうぞ、と麦茶を出したKさんの母親が広げられたアルバムに目を止める。
「いやだ、何てもの見てるの。恥ずかしいじゃない」
 手早く座卓の上のアルバムを片づけて、麦茶が出される。
「どうぞ、ゆくっりしていって」
「いえ、もうお暇しますので」
「あらそう?お昼が近いものね。おうちの方が心配するかしら」
「はい」
 そう、と言ってKさんの母親はアルバムを持って部屋を出て行った。せっかく出してくれた麦茶に全く口をつけないのも失礼かなと思って手を伸ばすと、
「飲むな」
と姉に短く制止された。姉は厳しい顔をしている。
「箱」
「あ?」
「箱を寄こせ」
「あ、あぁ」
 持ってきた布のバッグに手早く三つの箱を入れると、姉は立ち上がった。
「なんだよ。お前、何にもしてねーじゃねーか」
「K」
 引き留めたKさんに姉は、
「お前は間違いなく母親に愛されている」
「は?なんだよいきなり」
「神社に行って、Eさんにかけた言葉を謝罪しろ。お前にできることは、もうそれだけだ」
 それだけを行って姉は部屋を出ていく。
「おい!!」
 Kさんの怒りに満ちた声にも振り返らない。俺も姉に続いて部屋を後にした。Kさんは追いかけては来なかった。
 そのままKさんの家を出る。家の人への帰りの挨拶は珍しいことにしなかった。
 外に出ると眩しい日差しが照って、部屋の中との明るさの違いにくらくらとめまいがした。
「いしをつめ」
 姉が何事がを呟いた。
「いしをつめいしをつめいしをつめ」
低く小さな呟きだった。
「行くぞ」
 Kさんの家への訪問はそんな風に終わった。
帰り際に振り返ると、2階の窓からKさんが俺達を睨み見下ろしていた。
姉は振り返らなかった。


それからちょうど1週間後。月曜日の早朝、姉は親が起きるより早く一度外に出て、すぐに部屋に戻ってきた。時計をみるとまだ五時半だ。
 ドアが開く音で目を覚ました俺は、何事かと部屋から姉の様子をうかがった。
 階段を昇って来た姉の手には、何か数枚の紙が握られていた。
「どうしたの?」
「お手紙。見るか?」
 封筒にも入っていない紙をひらひらとさせて、姉はあの暗い笑みを浮かべた。
 目が笑っていない。何かを嘲るような、諦めるような、怒っているような、それらが混ざった表現しがたい表情で姉は言った。
「見る」
 俺達は姉の部屋でソレを見る事にした。
 姉は部屋に鍵をかけて、床にソレを広げた。わら半紙だろうか。乱雑に書き殴られた、大きさのまとまらない字が目に入ってきた。


せっかく遠いばしょにきたのに、あの子はしにました。だれも私のいえをしらないのに。私の腕にはあの子の重さと、まだ温かい体が冷たくなっていく感触がのこりました。わすれられない。わすれられない。わすれられないんです。あの子をどうするつもりですか。どうするつもりだ!!わたさないからお前たちよけいな女は近づかないでください。大事なあの子はここにいます。あの子はわたしのそばにいます。しんでしまったけど、ずっといっしょ。わたしの大事なあの子はずうっといっしょ。はなれたりしないの。だからわたしたちはしあわせ。じゃまをするな!!はなれることはないの。だれもわたしたちをひきはなすことはできないの。わたし達ははこのなか。しあわせしあわせしあわせしあわせしあわせでたまらない。

きえろ


 クレヨンを使ったのだろうか。何枚かの紙にそろわない大きさの字でめちゃくちゃに書かれたソレは、見ているだけで目が回りそうなものだった。
 最後の1枚だけ、ボールペンの綺麗な字で『きえろ』と一言書かれて終わっている。
意味がわからなかった。怪文書としか言いようがない。これが家のポストに入っていたのだろうか。気持ち悪くて全身に鳥肌が立つ。
 姉は部屋に置いていた布バッグを引き寄せて中を確認した。黒く焦げた3つの箱はいまだにそこにあった。
「どうするの?」
「どうにかするのはKであって、本当は私じゃない。それでも・・・・・・」
 それでも、の続きは語られなかった。
 姉は紙をひとまとめにすると、ぐしゃぐしゃと一つに丸めてゴミ箱へ放り投げた。
 一階から朝ご飯を告げる母の声が聞こえる。そんなに時間が経っていたのかと驚いて時計を見ると、いつの間にか七時になっているた。完全に時間の感覚がおかしくなっている。
「食事をしたらコノミのところに行く。解決は、たぶんしないんだろうが。Eさんのことだけでも何とかしないと」
 着替えをするからと姉の部屋を追い出された。
 Kさんに付きまとっているという、鳥の声を出す女生徒。Eさんには会ったことも無い。どうにかできるのだろうか。
 早く降りてきなさーいという日常でしかない母の声が、今は異物のようだった。


 コノミさんはいつも会う公園に佇んでいた。
「ね、無駄だったでしょう?」
 開口一番、コノミさんは姉に向かってそんな風に語りかけた。
「手を貸そうとしても、私達の手を跳ねのける人がほとんど。わからない、見えない、聞きたくない。だから自分では何もしない。ゆきちゃんの親切は、差し伸べなくても良い手を伸ばして、振り払われに行ってるようなものだよ」
「いなほをたらすかた しろきじゅうしんのあるじに おねがいもうしあげる」
「・・・・・・・・・・・・」
「みゃくみゃくとちにつがれるはこを こにたまわりたく はこのこえにふれたものにおじひをたまわりたく ささげものにこの」
「やめて」
 コノミさんが遮った。
「そんなことをしなくても、ゆきちゃんのお願いならきいてあげる。友達だから。ゆきちゃんは、私の友達だから」
「助かる。ありがとう」
「Eさんは可哀想だから、少しだけ手を貸してあげる。好きになった人が、危ない目に合いそうだから助けようとしただけなのにね。近づいたから、拒絶されて障りまで与えられて。それでも、助けようと伝えようとしてたのに。だから忘れさせてあげる。最初からEさんはあの子を知らなかった。だから血の障りも、箱の声も届かない。Eさんには何も起こらなかった。私が手を貸すのはそこまで。悪い子のことは知らない。だってもう遅いもの」
「遅いか」
「無自覚に振りまいた悪意が、悪い子の道を決めただけ。あの子が産まれてから、今までの報いを受けるだけ。大事なものを大事にできなかった、身勝手で悪い子。悪い子は取り換えられても仕方ないよね」
 コノミさんは夢の事を何も知らないはずだ。なのにあの女の人が言った、『悪い子はとりかえっこしましょうね』という言葉を知っているかのようだった。
 コノミさんが俺を見る。
「神様は夢を渡るんだよ」
 心の中を見られている、そんな気がした。
 ざわざわと風が吹いた。
 コノミさんが空中を撫でるように手を動かす。
「行って」
 一際強く風が吹いて、砂埃が入りそうで目をつぶった。風が止み、目を開いた時には姉の手の中に綺麗な箱があった。Kさんの家で見た写真に映っていた、女の子が持っていた組木細工の箱だった。
「すごいな」
「すごくないよ。私の家もあの女の人と似たようなモノだもの。近しいモノなら簡単。少しあっちが弱かった、それだけ」
 姉のコノミさんのやり取りはわからない事だらけだった。
「貴重なモノが手に入った。礼をいう」
 姉は鞄から白い布を取り出すと、組木細工の箱を丁寧に包んで、また鞄へとしまった。
「そんなものでもゆきちゃんの役に立つなら何よりだよ。私ちょっと疲れたから家に帰る。お礼に送ってくれる?」
「そんなことで良ければ、いくらでも」
「遅刻するかもよ」
「まだ早いからコノミを送っても遅刻しない。それに1回遅刻したせいで目くじらを立てられるような生活を、私もとうまもしてないから問題ない」
「ゆきちゃん達真面目だから」
 コノミさんが笑った。
 人形のようなコノミさんが、初めて人間に見えた。
 そこにいるのは、ただの姉の友達の一人だった。友人同士が笑いあう、普通の光景が広がっていた。 


 神社に向かうような、ちょっと木立の中の小道の先にコノミさんの家はあった。
 木々の薄暗がりを抜けた先にぽかりと、急な明るさにめまいがする。
「じゃあね、弟くん」
 何事もなかった様にあっさりと、コノミさんは自宅へと帰っていく。ごく近場に並んだ、えらく古めかしいが大きな家と近代的な二階建てのこじんまりとした住宅。
 その新しい方の家へ入っていく後姿を見送って、俺も帰ろうかと踵を返しかけた時、何か変なモノが視界に入った気がして俺は足を止めた。
 何が意識に引っかかったのかわからず、しばらくきょろきょろと辺りを見渡す。
 家が二軒とその周囲に小さめの畑。50mくらい離れているだろうか、しばらく先に他の住宅が数軒並んで建っている。
 あっち側にも道があるのにわざわざコノミさんは木立の細い道を通ってきたのかと不思議に思ったが、数軒並んだ家の前に敷かれた舗装された道は、ここまで届く事無く途中で不自然にふつりと切れていた。
切れた道から先は、こちらに向かってかろうじて細い砂利道が通っていたが、その両脇は雑草が茂っていて、手入れがされている感じではなかった。
 道があるのに、途切れている。
 なんだか不思議な場所だった。
 だが、俺の視界をよぎった変なモノはたぶんあの道じゃない。
 再びゆっくりと辺りを見渡した時だった。背中にじっとりとした視線のようなものを感じ、背筋に鳥肌がたつ。
 ゆっくりと振り返ると、古めかしい家の戸口が、人1人分ぐらいの隙間を開けていた。
 戸口の先は暗い。時代に取り残されたような藁ぶき屋根と色の煤けた木でできた、今にも崩れそうな、かつては立派であった気配を感じさせる家。
 真っ暗に見えた戸口に、何か動くモノがあった。
 顔が、覗いていた。
 K君のお母さんの顔。ただし夢で見たのと同じように、目玉が入るべき場所には真っ黒な穴が開き、そこから黒い液体を流していた。唇をつりあげて笑う異様な顔が、首から先だけ薄ぼんやりと浮かんでいる。
 おぞましい。
 見ている。
 見られている。

「見るな」

 姉の声がして、手の平で目元を覆われた瞬間、

「『ぎゃんっ!!!』」

と激しい悲鳴のような音がした。
 姉の手がどけられたその先、古い家の戸口は先ほど見たのが夢か幻だったかのように何事も無く閉じていた。
 俺は何を見たのだろう。
 何を聞いたのだろう。
 覆われた視界のその先で、姉はあの暗がりにナニを見たのだろう。
 ぽつりと他から切り離されたような二軒の家に、言いようの不安がこみ上げた。
「姉ちゃん、ここってなに?」
 漠然とした問いかけだったと思う。
 けれどそれには、きっぱりとした答えがあった。

「両方とも、コノミの家だよ」

 眼窩の真っ暗な女の笑う顔を思い出す。
 ここが両方ともコノミさんの家だと言うなら、アレはなんだっだのだろう。
「神様をお祀りしているのに人から妬まれて、違うモノとして伝えられてしまった、悲しい場所だよ」
さて、と
「最後はKの家か」
 Kさんは姉の忠告を聞いたのだろうか。たぶん、姉とコノミさんの口ぶりから考えるに聞かなかったのだろう。
 だとしたら、今どうなっているのか。
すっかり夏空に変わってきた空の下を歩く。姉にはすでに結果がわかっているようだった。
 やがてKさんの家に辿り着く。
 工事は終わったのか、あの日見た足場は全て片づけられ無くなっていた。
 かわりに異様なものが目に入った。
 全ての窓に、防犯を意識した格子というにはあまりにも仰々しい、鉄格子と言えるようなものが取り付けられていた。
 1階の窓にも、2階の窓にも。
 空気を通すためか窓は開いていたが、開放感はまるで感じず、ひたすらに威圧するような圧迫感があった。
 2階の窓に、ちらりと人影が映る。
 Kさんだった。ぼんやりとこちらを見て、指を吸っている。まるで幼い赤子のような表情で。
 その後ろからKさんの母親が近づいてきて、ゆっくりと背後からKさんを抱きしめた。
 大事なものを守るように、慈しむように。
「R君ご飯食べようか」
 風に乗って小さく声が聞こえる。
 Kさんはこくりと頷くと窓の奥へと引っ込んで行き、ついには誰も見えなくなった。
「家もまた、1つの箱か」
 姉はKさんが消えた窓を眺めていた。
 それっきり、Kさんの姿を見かけることは無くなった。
 ただの一度も。

 その日の夕方のことだ。
 昼の陽気とは打って変わって、雨の振り出しそうな重たい雲の下、俺と姉は帰路に着いていた。
 空を何度も稲光が走る。
 ゴロゴロという音のしない、不思議な稲妻。
 自宅が見えて、その傍に誰かが立っているのが遠くから伺い知れた。
 近づくに連れ、父親であることがわかった。ただ立っている。何をしているのだろう。少なくとも、俺達の帰宅中の天気を心配して出てきたわけではないだろう。
 いよいよ家の前に差し掛かり、
「ただいま・・・・・・」
と一応声をかけてみる。が、父の目は姉に一心に注がれていた。
 一分か、二分か、家先で俺達は立ち尽くしたままだった。
 やがて目の前で父の口が笑みに歪んだ。
「『かーんど、かんどー、かんでん、かんでん』」
 その声と言葉に俺は恐怖した。ビデオテープの音を無理やり引き延ばしたような、ザラついて不快な、『赤い鬼』の声。
 それは姉がまだ小学生の時に俺が聞いた、姉には伝えていない鬼の言葉だった。
 父の口から、喉から、鬼の声が聞こえた。
 それだけを言うと、父はぼんやりとした様子で家の中へ入っていった。
 家もまた1つの箱だというなら、ここは鬼の箱の中なのだろうか。
 姉は無表情に家を眺めていた。何を考えているかはまるで分からない、温度の無い眼差しで。  


 先日の話だ。
 久しぶりに実家へ寄る機会があったので、ついでにKさんの家まで足を伸ばした。
 今はどうなっているのか、遠目でいいから確認したかった。
 だが、そこに家はもうなかった。
 がらんどうの空地。売り地の錆びた看板が、ぽつんと置かれている。
 あの日の光景が頭をよぎる。鉄格子の向こうで、ほうけた顔で親指を吸っていたKさんの姿が。
 もはや二度と会うこともないだのだろう。
 境界を越えてしまった人達は何処へ行くのだろうか。
 暗がりの境界線を歩く、あの日の姉が頭の中で笑う。

 しあわせでたまらない。
 ぐちゃぐちゃに描かれたクレヨンの文字。

 人の幸せの形はそれぞれで、分かりやすい不幸の形とは違い他者が本当の意味で理解することはできないのかもしれない。
 鬼の形をした不幸、それならあの頃の姉の幸せはなんだったのだろう。
鬼の姿がちらちらと。
 境界線はどこまでも続いていた。

 それはまた、別の話で。

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